[更新状況]
Iron Gate に池田晶子『さよならソクラテス』を追加しました。
金曜日, 3月 07, 2003
[セバスチアン・ジャプリゾ死去]
THE GUMSHOE SITE によると、『シンデレラの罠』の作者セバスチアン・ジャプリゾが、3月4日、亡くなりました。71歳でした。
『シンデレラの罠』を最初読んだときの興奮は今でも忘れられません。
ご冥福をお祈りいたします。
THE GUMSHOE SITE によると、『シンデレラの罠』の作者セバスチアン・ジャプリゾが、3月4日、亡くなりました。71歳でした。
『シンデレラの罠』を最初読んだときの興奮は今でも忘れられません。
ご冥福をお祈りいたします。
火曜日, 3月 04, 2003
[正常と相貌盲について]
OKさんの「だれもかれもがとち狂っている」?を読んで、どーしてもひとこと言いたくなったので書きます。
OKさんが書いている(笠井潔の意見を敷衍しての)
”馳星周の世界観は彼らに較べると古臭いのではないかと結論していたように記憶している。これは馳星周の煽り調子の「断言」におぼえる居心地の悪さを説明していて(……)”
というのは、要するに「精神分析医」のやり方と同じで、「とち狂った患者」に対して、「正常を自認する視点」で持って絶対的な「権力」を行使していることへの疑問と通じるように思える。だからこそ、馳星周の作品はある意味「エンターテイメントとして」成功しているのであるが、『オイディプス症候群』でフーコーを登場させ、「権力論」を提示した笠井氏はそこが引っ掛かっているのではないか、ということが一つ。
そこで吉野氏のゲシュタルト心理学の図版(ルビンの壷)の見え方の問題だけど、あれはある意味「恐ろしくはないはず」だと思うけど。というのは、同じような反転図形「ウサギ-アヒル」を使ってウィトゲンシュタインが「相貌盲(人)」──ウサギに見えたりアヒルに見えたりという反転体験が起こらない人─の考察で、彼は”実は「正常な人」はみんな相貌盲だ”と言っているからだ。要するに図形を見て(図形の上での)「ウサギ-アヒル」を反転することは、まあみんなある程度できるけれど、これが実生活での「ウサギ-アヒル」問題は、なかなかその反転を「知覚」し「理解」することが困難であるからだ。
これはさすが「同性愛者」であるウィトゲンシュタインならではだと思う。
例えばこの反転図形を、日常生活上で、「異性愛者」(ウサギ側)と「同性愛者」(アヒル側)として見た場合、どれだけ「反転」できるか、ということを考えればわかりやすいのではないか。つまり「異常とされる側=同性愛者=アヒル」は「相貌」を「意識」するが(相貌知覚)、「正常とされる側=異性愛者」はほとんど「相貌盲」ではないか、ということだ。つまり実際の「現実の」社会(異性愛至上社会)では、「相貌盲」は「恐ろしくない」はずだ。
ついでながら、このウィトゲンシュタインの「相貌盲」に関して永井均は面白いことを言っている。
”意味体験や相貌知覚を通してウィトゲンシュタインが考察した問題は、いわば「本質直感」の問題であった。彼は対象の新たな相貌が現われてくる体験を「相貌の閃き」と呼んで、「なかば視覚体験なかば思考」と評した。つまり、そこには何であるか(本質)が閃く(体験される)、というニ側面が含まれており、したがって、本質を理解できても知覚することができない表情盲性の相貌盲と、対象の諸属性は知覚できても内的関係(本質)を把握することができない解釈盲性の相貌盲が考えられるわけである”(『ウィトゲンシュタイン入門』、ちくま新書)
OKさんの「だれもかれもがとち狂っている」?を読んで、どーしてもひとこと言いたくなったので書きます。
OKさんが書いている(笠井潔の意見を敷衍しての)
”馳星周の世界観は彼らに較べると古臭いのではないかと結論していたように記憶している。これは馳星周の煽り調子の「断言」におぼえる居心地の悪さを説明していて(……)”
というのは、要するに「精神分析医」のやり方と同じで、「とち狂った患者」に対して、「正常を自認する視点」で持って絶対的な「権力」を行使していることへの疑問と通じるように思える。だからこそ、馳星周の作品はある意味「エンターテイメントとして」成功しているのであるが、『オイディプス症候群』でフーコーを登場させ、「権力論」を提示した笠井氏はそこが引っ掛かっているのではないか、ということが一つ。
そこで吉野氏のゲシュタルト心理学の図版(ルビンの壷)の見え方の問題だけど、あれはある意味「恐ろしくはないはず」だと思うけど。というのは、同じような反転図形「ウサギ-アヒル」を使ってウィトゲンシュタインが「相貌盲(人)」──ウサギに見えたりアヒルに見えたりという反転体験が起こらない人─の考察で、彼は”実は「正常な人」はみんな相貌盲だ”と言っているからだ。要するに図形を見て(図形の上での)「ウサギ-アヒル」を反転することは、まあみんなある程度できるけれど、これが実生活での「ウサギ-アヒル」問題は、なかなかその反転を「知覚」し「理解」することが困難であるからだ。
これはさすが「同性愛者」であるウィトゲンシュタインならではだと思う。
例えばこの反転図形を、日常生活上で、「異性愛者」(ウサギ側)と「同性愛者」(アヒル側)として見た場合、どれだけ「反転」できるか、ということを考えればわかりやすいのではないか。つまり「異常とされる側=同性愛者=アヒル」は「相貌」を「意識」するが(相貌知覚)、「正常とされる側=異性愛者」はほとんど「相貌盲」ではないか、ということだ。つまり実際の「現実の」社会(異性愛至上社会)では、「相貌盲」は「恐ろしくない」はずだ。
ついでながら、このウィトゲンシュタインの「相貌盲」に関して永井均は面白いことを言っている。
”意味体験や相貌知覚を通してウィトゲンシュタインが考察した問題は、いわば「本質直感」の問題であった。彼は対象の新たな相貌が現われてくる体験を「相貌の閃き」と呼んで、「なかば視覚体験なかば思考」と評した。つまり、そこには何であるか(本質)が閃く(体験される)、というニ側面が含まれており、したがって、本質を理解できても知覚することができない表情盲性の相貌盲と、対象の諸属性は知覚できても内的関係(本質)を把握することができない解釈盲性の相貌盲が考えられるわけである”(『ウィトゲンシュタイン入門』、ちくま新書)
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