マーガレット・アトウッドの『昏き目の暗殺者』(早川書房)をちょっと読んだのだが、やめた。無論、つまらないわけではない。まったく逆だ。ミステリーであり、SFであり、純文学でもある。そして仕掛けられたメタ構造。これは傑作に違いない。あまりに凄すぎて、現在の時間の取れない状況で、ポツリポツリと読みたくないからだ。連休にガーと読むつもりだ。
代わりに短編を(再)読みたい思う。『positive 01』(書肆風の薔薇)。この短編集はピンチョン以後のポストモダン小説のアンソロジーで、最初にこの本の存在を知ったときは狂喜したものだ。惹句の「小説は斬新だ」に偽りはない。既成の「小説」の概念を解体しつつ、新たな「小説観」を創造する「小説」たち。ピーター・ケアリーからウィリアム・ヴォルマン、デイヴィッド・フォスター・ウォーレス、ハロルド・ジェフィなんかはこのアンソロジーで知った。訳者も柴田元幸、越川芳明、佐藤良明らの信頼のおけるメンツであるし、何より風間賢二が加わっているのが心強い。
それにしても予告にあった02以下は出ていないのだろうか。
土曜日, 4月 12, 2003
アンサンブル・モデルンによるジェルジュ・クルターグ曲集(György Kurtág "Song Cycles", SONY CLASSICAL)。ツィンバロンがじゃらじゃらと掻き鳴らされる「Message of the Late Miss R.V.Troussava, Op.17」が強烈だ。色彩的でエキゾチックな伴奏を背景に、ソプラノがエネルギッシュにギャーギャーと叫びまくる。ちょっとシェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』みたいな感じ。
とくに第二集「A Little Erotic」の第一曲「Heat」。刺激的な題名そのままで、まさにエロティックにヒートする。かなりの高音で、微妙な音程を変化させること自体が最高に超絶技巧なのであるが──しかもかなり息が長い──高音から一挙に下がってくるとき、まるで悪意めいた「哄笑」になっているのがとても印象的で、一度聴いたら忘れられない。クルタークの「音響」は面白すぎる。
とくに第二集「A Little Erotic」の第一曲「Heat」。刺激的な題名そのままで、まさにエロティックにヒートする。かなりの高音で、微妙な音程を変化させること自体が最高に超絶技巧なのであるが──しかもかなり息が長い──高音から一挙に下がってくるとき、まるで悪意めいた「哄笑」になっているのがとても印象的で、一度聴いたら忘れられない。クルタークの「音響」は面白すぎる。
木曜日, 4月 10, 2003
デュラン・デュラン『ニュームーン・オン・マンデイ』のPVの冒頭のセリフ。あれがクルト・ワイルの『三文オペラ』から取られているのを知ったのはずっと後のこと。マウチェリー指揮RISAシンフォニアのCD(DECCA)を聴いたときだ。あー、あれがそうだったのか、と思ったのも束の間、次の「マック・ザ・ナイフ」(メッキース)のメロディーを聴いて、これも聴いたことがあるぞ!そして「大砲ソング」も、と狂喜した次第。
『三文オペラ』ってほんとうにいろいろなところで耳にしていた。ワイルの音楽だというのを知らなくても『三文オペラ』の「ナンバー」はいろいろな歌手が歌っている。マウチェリー盤は由緒正しきワーグナー歌手ルネ・コロに、ポップス界の女王的存在のミルバ、それにマレーネ・デードリッヒの再来のようなウテ・レンパーという異色のメンバーの共演が興味深かった。
しかしそれにも増して僕が気に入っているのが、アンサンブル・モデルン盤(BMG)。なんといっても現代音楽の精鋭集団のアンサンブルモデルンが「わざと下手に聞えるように」(なんといっても「三文オペラ」なのだし)最強のテクニックを披露しているのが、ニクイ。そこにロック歌手のニナ・ハーゲン(ピーチャム夫人役)の毒々しいシャウトが絡み、異様だけととても面白い演奏になっている。また、マウチェリー盤ルネ・コロの堂々としたメッキースと違って、モデルン盤ではMax Raabeがいかにも優男的だし、同じく、ミルバのようなドスの効いた低音ではなくて、可憐でちょっと甘えた感じのTimna Brauserのジェニーがいかにも「らしく」て愉しい。二人のデュエット「Pimps' Ballad」なんかは本当に安っぽくて、まさに「三文オペラ」的、戸梶圭太的「激安」な世界が繰り広げられる。
『三文オペラ』ってほんとうにいろいろなところで耳にしていた。ワイルの音楽だというのを知らなくても『三文オペラ』の「ナンバー」はいろいろな歌手が歌っている。マウチェリー盤は由緒正しきワーグナー歌手ルネ・コロに、ポップス界の女王的存在のミルバ、それにマレーネ・デードリッヒの再来のようなウテ・レンパーという異色のメンバーの共演が興味深かった。
しかしそれにも増して僕が気に入っているのが、アンサンブル・モデルン盤(BMG)。なんといっても現代音楽の精鋭集団のアンサンブルモデルンが「わざと下手に聞えるように」(なんといっても「三文オペラ」なのだし)最強のテクニックを披露しているのが、ニクイ。そこにロック歌手のニナ・ハーゲン(ピーチャム夫人役)の毒々しいシャウトが絡み、異様だけととても面白い演奏になっている。また、マウチェリー盤ルネ・コロの堂々としたメッキースと違って、モデルン盤ではMax Raabeがいかにも優男的だし、同じく、ミルバのようなドスの効いた低音ではなくて、可憐でちょっと甘えた感じのTimna Brauserのジェニーがいかにも「らしく」て愉しい。二人のデュエット「Pimps' Ballad」なんかは本当に安っぽくて、まさに「三文オペラ」的、戸梶圭太的「激安」な世界が繰り広げられる。
水曜日, 4月 09, 2003
今日も帰宅が11時過ぎてしまったが、ムソルグスキー『展覧会の絵』の中の「キエフの大門」を弾く。やっぱりオクターブ/和音をガンガン鳴らすのはストレス解消になる。ラフマニノフのプレリュード1番しかり、ブラームスのラプソディ2番しかり。
ちょっとセンチメンタルなメンデルスゾーンの「アルバムの一葉」はちょっと指がもつれて思うように弾けないな。週末にでもきちんとさらおう。
今聴いているのは、リリヤ・ジルベルシュタインのリスト曲集。「バッハのテーマによる幻想曲とフーガ」がすごくかっこいい。バッハの綴り”BACH”はそのまま「音名」になるので、これをテーマにしたもの。シューマンの「アベッグ変奏曲」も同じ発想だが、リストは厳格な、何重にも仕組まれたフーガとピアノのヴィルトゥオジティで勝負する。ジルベルシュタインもスケールの大きい演奏を聴かせる。彼女の確かなテクニックはバラード2番でも同様、素晴らしいプレゼンを披露し、なんといっても低音のスケールが荒々しく情熱的に響き渡る。やはりかっこいいの一言。
一時DGから集中的にリリースされていたジルベルシュタインのCDだが、最近はぜんぜん見かけない。どうしたんだろう。
ちょっとセンチメンタルなメンデルスゾーンの「アルバムの一葉」はちょっと指がもつれて思うように弾けないな。週末にでもきちんとさらおう。
今聴いているのは、リリヤ・ジルベルシュタインのリスト曲集。「バッハのテーマによる幻想曲とフーガ」がすごくかっこいい。バッハの綴り”BACH”はそのまま「音名」になるので、これをテーマにしたもの。シューマンの「アベッグ変奏曲」も同じ発想だが、リストは厳格な、何重にも仕組まれたフーガとピアノのヴィルトゥオジティで勝負する。ジルベルシュタインもスケールの大きい演奏を聴かせる。彼女の確かなテクニックはバラード2番でも同様、素晴らしいプレゼンを披露し、なんといっても低音のスケールが荒々しく情熱的に響き渡る。やはりかっこいいの一言。
一時DGから集中的にリリースされていたジルベルシュタインのCDだが、最近はぜんぜん見かけない。どうしたんだろう。
火曜日, 4月 08, 2003
今、モニク・アースのラヴェルを聴いている。決してヴィルトゥオーゾではないし、とりたてて個性的な演奏ではないのだが、モニク・アースというピアニストの弾くラヴェルはとても気に入っている。もちろん『夜のガスパール』には情熱的なアルゲリッチやまさに個性的なポゴレリッチ、『クープランの墓』の「トッカータ」なんかはディボーデのキレやパスカル・ロジェのスピード感をウリにしたもの、『高雅で感傷的なワルツ』は強烈な打鍵のアルゲリッチなど多士多彩なCDがある。
でも、モニク・アースのラヴェルは、味があるというか「雰囲気」があるというか、つまり「印象批判」でしか語ることのできない魅力がある。技術的な洗練を競い合うのではなく、しかも洗練された言葉で批評される「対象」でもなく、言わずがもなな「雰囲気」、音楽。
『ハイドンの名によるメヌエット』なんかとてもいい雰囲気を醸し出している。
でも、モニク・アースのラヴェルは、味があるというか「雰囲気」があるというか、つまり「印象批判」でしか語ることのできない魅力がある。技術的な洗練を競い合うのではなく、しかも洗練された言葉で批評される「対象」でもなく、言わずがもなな「雰囲気」、音楽。
『ハイドンの名によるメヌエット』なんかとてもいい雰囲気を醸し出している。
月曜日, 4月 07, 2003
今さらであるが、渋谷の古書センターの2階がリニューアルしてとても洒落た感じになった。品揃えも妙に気になるものばかり。で、現代思想1973/8号「特集=ケレーニイ/新しいギリシア像の発見」とエピステーメー11「仮面・ペルソナ」を手に入れた。どちらもプラトン関係の記事がめあて。
カール・ケレーニイ「饗宴の大いなるダイモン」(現代思想)には”不屈のプラトン学者ディオニュス・ケヴェンディに捧ぐ”というケレーニイの献呈がなにより心強い。また、エピステーメーの方にはジル・ドゥルーズの「模像 プラトニスムを逆転させる」が載っている。ちょっとだけ読み始めたドゥルーズの方は、たしかに難しいのだが、すごく気になることが書いてあって、まさに目からウロコ状態。すなわち「プラトニスムを逆転する、とはこれとは逆にこの動機を白日の下に晒し、プラトンがソフィストを駆逐するようにこの動機を《駆逐する》意味でなければならない」(杉本紀子訳)。これは「差別作家」を臆面もなく「宣伝」している人たちに抗するための一つの戦略になるかもしれない。精読しよう。
カール・ケレーニイ「饗宴の大いなるダイモン」(現代思想)には”不屈のプラトン学者ディオニュス・ケヴェンディに捧ぐ”というケレーニイの献呈がなにより心強い。また、エピステーメーの方にはジル・ドゥルーズの「模像 プラトニスムを逆転させる」が載っている。ちょっとだけ読み始めたドゥルーズの方は、たしかに難しいのだが、すごく気になることが書いてあって、まさに目からウロコ状態。すなわち「プラトニスムを逆転する、とはこれとは逆にこの動機を白日の下に晒し、プラトンがソフィストを駆逐するようにこの動機を《駆逐する》意味でなければならない」(杉本紀子訳)。これは「差別作家」を臆面もなく「宣伝」している人たちに抗するための一つの戦略になるかもしれない。精読しよう。
日曜日, 4月 06, 2003
B・A・ツィンマーマン Bernd Alois Zimmermann "Antiphene / Ommia tenpus habent / Presence" (BMG)を聴く。演奏はアンサンブル・モデルン。これはまさしくアヴァンギャルドな響き。プレザンスでプロコフィエフが引用されているのはいつ聴いても驚く。まあこれはツィンマーマン特有の引用やパロディで、音楽的には「時間構造の多層性」を狙ったものだという。『作曲の20世紀』(音楽之友社)によると、ツィンマーマンはベルクソン哲学やフッサールの現象学に深く影響を受け、未来、過去、現在の「時間把握」に取り組んだということだ。ひさしぶりにツィンマーマンを聴きたくなったのは、今読んでいるハイデガー関係の繋がりだ(ハイデガーも、あんなわけわからん言葉を使って、またそんなに言葉に拘泥しなくても、素直に時間を操作する芸術=音楽/作曲すれば良かったんじゃないかと思う。ツィンマーマンの「プレザンス( Presence)」みたいなことをやりたかったんじゃないのか、ハイデガーって?)
それとツィンマーマンはメシアンと同じ熱烈なカトリック信者なのだが、メシアンと同様、その作品はかなりいかがわしい「響き」を獲得している。前述の『作曲の20世紀』ではツィンマーマンの作品を「宗教的敬虔さと卑俗でカーニバル的な破天荒が同居していた」と指摘している。これもメシアンと近い。しかもツィンマーマンはカトリックでは罪である「自殺」をしている。不思議な作曲家だ。
それとツィンマーマンはメシアンと同じ熱烈なカトリック信者なのだが、メシアンと同様、その作品はかなりいかがわしい「響き」を獲得している。前述の『作曲の20世紀』ではツィンマーマンの作品を「宗教的敬虔さと卑俗でカーニバル的な破天荒が同居していた」と指摘している。これもメシアンと近い。しかもツィンマーマンはカトリックでは罪である「自殺」をしている。不思議な作曲家だ。
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