土曜日, 4月 05, 2003

「積読」という言葉があるのなら、「積聴」というのもあってもいいだろう。というわけで、少し前に買ったローレムの室内楽曲集(NAXOS)をやっとまともに聴いた。やっぱりローレムはいいなあ。弦楽四重奏曲のレビューでも書いたけど、ローレムの音楽って聴きやすくて、適度にエキサイトさせてくれるし、何より爽快だ。

ローレムとは全然傾向が違うが、やはり「積聴」だったパスカル・デュサパンもまあまあ良かった。Pascal Dusapin "Extenso / Apex / La melancholia"(MONTAIGNE)。デュサパンに興味を持ったのは、以前音楽雑誌の記事(多分レコ芸かな)で、シャルル・デュトワがフランスで現代もののコンサートを行ったときに、そのコンサートに行ったリスナーの評価として「デュサパンは誰でもできる、誰でもやる」ようなことが書かれてあったからだ。多分その通ぶったリスナーは、デュサパンはデュトワのようなポピュラーな指揮者が取り入れるのに相応しい現代音楽作曲家だと言いたかったのだろう。そして何よりデュトワがその程度の指揮者だとも。まあ、これもKill Joy な言いかたの一つに違いない。




昨日夜、ウイスキーを飲んで寝たためか朝勃ちなしの起床。しかし疲労やストレスが溜まると酒を飲んだりピアノを弾きたくなったりセックスをしたくなったり泳ぎたくなったりと肉体を酷使したくなるのが不思議だ。

景気付けにキーシンのピアノを聴く。バッハ=ブゾーニの『シャコンヌ』。『シャコンヌ』はファジル・サイの方が情感があって、さすがにカッコよく盛り上げてくれるのだけれでも、ついでにシューマン『クライスレリアーナ』も聴きたかったので。それにしてもここのところのキーシンは凄い。以前、カラヤンやアバド、小澤なんかとコンチェルトをやっていたころは、上手いけど、アクがなさすぎて強い印象がなかった。しかし、BMGから出たブラームスのパガニーニ変奏曲を聴いてからダントツに好きなピアニストになった。これを聴いたときは本当に腰を抜かした。だってあんなに三度や六度をスピーディーに攻撃的挑発的に弾けるなんて他にいない。衝撃的事件だった、と多少大袈裟に言いたい。

去年出たシューマンの1番ソナタと謝肉祭もこの曲のデファクトスタンダードと言っても良いだろう。1番ソナタは大好きな作品で、シューマン特有のこんがらがった曲想がたまらなく、遊びで弾いたりするが、弾きばえはするものの(自己満足)、聴きばえがさほどない感じが難点かな。しかしキーシンが弾くとリストの作品に匹敵するくらいカッコよくドラマティックに響く。さすがだ。それとどうでも良いことだが、僕は倉橋由美子の『交歓』にも出てきた、「中抜き」、つまりロマン派抜きで、古典、バロックと近代を聴く、と「喧伝」しているリスナーは基本的に嫌いだ。それとピリオド楽器やスタイルがどうのこうのと言う連中も。というのも思い出したのだが、たしかレコ芸で、キーシンのパガニーニ変奏曲を評した人物が、ベートーヴェンとフランクとそのブラームスを「カップリングしたそのこと」によって評価を下げていたからだ。どうでも良いことだが、そのことを思い出すと今でもアタマにくる。
[四月は一番残酷な月だ]

と始まるT・S・エリオットの詩が身にしみる。だって今日も出勤で、この雨の中、移動しまくって、ついさっき帰宅。土曜日だってのに遊びに(Hしに)も行けやしない。だから更新……と言ってもろくに本も読めてないので、これまであんまし書こうと思わなかった日記/雑記のたぐい。まあ、一種のBlogだと思えばいいか。

忙しいとなぜかピアノをガンガン弾きたくなる。幸い電子ピアノなので夜でも弾ける。でもガンガンと弾くのは、実はハノンがメインであって、最近はショパンのノクターンでしんみりと遊んでいる。『戦場のピアニスト』のCMで流れていた19番あたり。でもこれって、ショパンのノクターンの中で多分一番弾きやすいんじゃないかと思う。左手の伴奏は規則的なリズムだし、三度や六度もないし、最初が面倒なポリリズムもないし。15番も易しいけど、ひさしぶりに試してみたら、最後の三連符のところがギコちなかった。15番は地味だけど、なかなかいいね。僕は好きだ。もちろん一番好きなのは13番だけど、ぜんぜん弾けやしない。難しすぎ。
それでもやっぱりガンガン「曲」も弾いてみたいので、明日はヴィラ・ロボスの『苦悩のワルツ』を練習しよう。この曲には最低音のAが出てくるので、このAの音をガツンと鳴らすのがなかなか快感なんだ。

いちおう通勤では木田元『ハイデガー「存在と時間」の構築』(岩波現代文庫)を読んでいる。が、やっぱり難しいな。だいたいハイデガーはプラトンよりアリストテレスに重きを置いているようなので、それだけで心証が悪いのだが。ただし『存在と時間』にはプラトンの『ソフィスト』が引用されているようなので、気にはなっている(が、多分僕は『存在と時間』自体は読まないだろう)。そしてまだ読みはじめたばかりであるが、こちらは古東哲明『ハイデガー=存在神秘の哲学』(講談社現代新書)は筆者の語り口が愉しい。

それで最初に書いたT・S・エリオットと言えば、清水書院から出ている徳永暢三『T・S・エリオット』がなかなか良かった。このシリーズはホントに初歩の初歩って感じがあってそれほど気に掛けていなかったのだが、コンパクトなわりには、良く纏まっていたし読み応えもあった。『荒地』の解読もパズルを解くような面白さがある。

よし、これで今日は更新できた。ピアノと同じで、毎日少しでもヤラないと、勘が鈍るので。



火曜日, 4月 01, 2003

[差別の発信地]

あるWebサイトで知ったのだが、中上健次が自分が被差別部落出身者であり、そのため有形無形の差別を受け、またその差別を「目撃」した、と書いているらしい(中上健次全集・第十五巻「日本の二つの外部」)。その中で中上が使用している言葉「差別の発信地」にえらく共感した。それは舞城王太郎がその小説の中で、同性愛者に「ペドフィル」の罪を擦りつけ、ヘイトクライムを「正当化」する言説を平然と行っているからだ(宮崎勤の幼女連続殺人が「異性愛」に帰したか)。そしてそんな差別作家を書評家らが称揚する──それこそが「差別の発信地」なのではないか、それこそ「戦うべき」有形無形の差別事象ではないか。

これまで、個人的にある適度知識のあるユダヤ人問題を絡ませながら舞城の差別を説いてきたが、もっと身近な「差別」と一緒に扱ったほうが、わかりやすく効果的なのではないかと思うようになった。今でもハンナ・アーレントやベンヤミンにあたって、舞城の醜悪な差別を考えているが、中上健次のことや同和問題にも焦点を当てて考えてみたい。舞城王太郎の「ヘイトクライム」を正当化するような言説は絶対に看過できないからだ。
とりあえず中上健次の「日本の二つの外部」を読むつもりだ。

月曜日, 3月 31, 2003

タワーレコードのミュゼvol.42(内藤忠行のカヴァー写真が最高に綺麗だ)にデイヴィッド・クローネンバーグのインタビューが載っている。話題の中心はパトリック・マグラア原作の映画『スパイダー』について。

また先日亡くなったアメリカの作曲家ルー・ハリソンの追悼記事もある。ここで知ったのだが、ルー・ハリソンの本が翻訳されているようだ。メモしておこう。『ルー・ハリソンのワールド・ミュージック入門』(柿沼敏江/藤枝守訳、財団法人ジェンスク音楽文化振興会)。





日曜日, 3月 30, 2003

[更新状況]

Iron Gate に倉橋由美子『交歓』を追加しました。