[更新状況]
Iron Gate にキャサリン・ベルジー 『ポスト構造主義』を追加しました。
土曜日, 4月 03, 2004
[河童化するポストモダン]
Guide氏へ。
さて、そろそろ「降りる権利」を発動したいと思う。なぜならば、僕の指摘した「問題」をあなた自身が証明してくれたからだ。
今回の
・(仮説X): ある一つの性的嗜好の人間の持つ集団の傾向を、他の性的嗜好者集団に対して一般化することはできない
ということ証明は、そのまま、あなたの発言「ゲイだってそうですよね・・・…」への僕の異議申立ての理由になっているからだ。
あなたを含めた「オタク言説」では、不必要に不適切に同性愛が言及され、とくに「やおい論」においては(自覚的なのか、無自覚的なのかわからないが)ゲイを貶める言説が頻出しているのを目にする。そのことは絶対に看過できないし、今後も「問題化」していくことに変りはない。あなたが、歪曲され偏見に満ちた「オタク像」に反発しているのと同様に、僕も侮蔑的に、そして都合の良い「代補」として言及される「ゲイ・イメージ」には到底我慢できない。
今回あなたとの議論において、自分でもたしかにオタクに対して偏見があったことは認める──というより気付いたというべきか。それは「児童ポルノ」(前後の関係上、悪いがこの言葉を使わせてもらう)に関して、そちらを始めいくつかのサイトを見た結果、やはりこの法改正は問題がありそうだと思ったからだ。ただし僕はあくまでも「言論の自由」という観点に重きを置きたいが。
ただ、あなたの主張する「ロリオタ」と「ペドフィリア」のニ分割については、その論理の明晰さは認めるが、納得しているわけではない。どこか騙されているような気がしないでもない。もっともそれは僕が「二分法」の思考が嫌いなことと、さらに「精神分析」はもっと嫌いだ(というより信用していない)という理由もあるだろう。
そうそう。相手を挑発するような態度を取るのはディベートの王道であると、僕は了解している。ただ「偉い人」斎藤環を証人にした裁判が「負けた」のは、「論理」がまずかったからだけではないだろう。「論理」を過信しすぎると「ジャッジ」の「心証」を悪くすることも、多分にあると思う。
Guide氏へ。
さて、そろそろ「降りる権利」を発動したいと思う。なぜならば、僕の指摘した「問題」をあなた自身が証明してくれたからだ。
今回の
・(仮説X): ある一つの性的嗜好の人間の持つ集団の傾向を、他の性的嗜好者集団に対して一般化することはできない
ということ証明は、そのまま、あなたの発言「ゲイだってそうですよね・・・…」への僕の異議申立ての理由になっているからだ。
あなたを含めた「オタク言説」では、不必要に不適切に同性愛が言及され、とくに「やおい論」においては(自覚的なのか、無自覚的なのかわからないが)ゲイを貶める言説が頻出しているのを目にする。そのことは絶対に看過できないし、今後も「問題化」していくことに変りはない。あなたが、歪曲され偏見に満ちた「オタク像」に反発しているのと同様に、僕も侮蔑的に、そして都合の良い「代補」として言及される「ゲイ・イメージ」には到底我慢できない。
今回あなたとの議論において、自分でもたしかにオタクに対して偏見があったことは認める──というより気付いたというべきか。それは「児童ポルノ」(前後の関係上、悪いがこの言葉を使わせてもらう)に関して、そちらを始めいくつかのサイトを見た結果、やはりこの法改正は問題がありそうだと思ったからだ。ただし僕はあくまでも「言論の自由」という観点に重きを置きたいが。
ただ、あなたの主張する「ロリオタ」と「ペドフィリア」のニ分割については、その論理の明晰さは認めるが、納得しているわけではない。どこか騙されているような気がしないでもない。もっともそれは僕が「二分法」の思考が嫌いなことと、さらに「精神分析」はもっと嫌いだ(というより信用していない)という理由もあるだろう。
そうそう。相手を挑発するような態度を取るのはディベートの王道であると、僕は了解している。ただ「偉い人」斎藤環を証人にした裁判が「負けた」のは、「論理」がまずかったからだけではないだろう。「論理」を過信しすぎると「ジャッジ」の「心証」を悪くすることも、多分にあると思う。
金曜日, 4月 02, 2004
[パッシングとチェスタトン]
「パッシング」とは、「偽装」して社会の受け入れを図ること。例えば、昔(そして今も)、ゲイが「異性愛者を装う」ことで、社会的に不利な立場から逃れることだ。
そしてあるオタク論者の発言「架空世界に耽溺すること自体は罪ではないし、現実の女の子に興味がないならむしろ安全。現実の女の子に手を出すのが罪なんだ」
どうも納得がいかないのは、「ロリコン(ロリオタ)」と「ペドフィリア」の<間>に「現実の女の子」に手を出すか、出さないか、という「綺麗な二分法」があるのに対し、
では、
<成人の女性>を対象とした「架空世界」で遊び、かつ、「現実の成人女性に興味がない」男性たちのことは、何と「名指し」されているのだろうか。両者に<亀裂>はあるのか?
ゲイでも同様で、<架空のマッチョ>で遊び、かつ、「現実のマッチョに興味がない」ゲイと、実際に現実のマッチョと恋愛をするゲイは、「明確に区別」されているだろうか。
ということだ。
多分、そういう人たちは、あまりにも少ないから、「名指し」されないのだろう。
いや、ゲイの場合は、違うかもしれない。それは社会的に同性愛に対する「禁忌」あった場合、多くのゲイは、身を守るために「パッシング」してきた。それは、「イメージで遊ぶゲイ」と「現実に行動をするゲイ」という「二つの人種」が存在している、というわけでは決してない。社会的な「抑圧」によって、自己防衛の手段として「パッシング」してきたのだ。その抑圧は強力で、アメリカ共和党の弁護士ロイ・コーンのように「男とファックするヘテロ」という「自己規定」を行った人物もいる。
しかし、客観的に見れば、ロイ・コーンは、あきらかにゲイであり、「男とファックするヘテロ」は「倒錯的なレトリック」でしかない。
レトリック……。
たしか、チェスタトンだったか。木の葉を隠すのは、森の中へ、そして、死体を隠すのは、戦場へ。
では、「ペドフィリア」を隠すのは、どうすればいいのだろう。何に偽装=「パッシング」すれば良いのだろう。
「パッシング」とは、「偽装」して社会の受け入れを図ること。例えば、昔(そして今も)、ゲイが「異性愛者を装う」ことで、社会的に不利な立場から逃れることだ。
そしてあるオタク論者の発言「架空世界に耽溺すること自体は罪ではないし、現実の女の子に興味がないならむしろ安全。現実の女の子に手を出すのが罪なんだ」
どうも納得がいかないのは、「ロリコン(ロリオタ)」と「ペドフィリア」の<間>に「現実の女の子」に手を出すか、出さないか、という「綺麗な二分法」があるのに対し、
では、
<成人の女性>を対象とした「架空世界」で遊び、かつ、「現実の成人女性に興味がない」男性たちのことは、何と「名指し」されているのだろうか。両者に<亀裂>はあるのか?
ゲイでも同様で、<架空のマッチョ>で遊び、かつ、「現実のマッチョに興味がない」ゲイと、実際に現実のマッチョと恋愛をするゲイは、「明確に区別」されているだろうか。
ということだ。
多分、そういう人たちは、あまりにも少ないから、「名指し」されないのだろう。
いや、ゲイの場合は、違うかもしれない。それは社会的に同性愛に対する「禁忌」あった場合、多くのゲイは、身を守るために「パッシング」してきた。それは、「イメージで遊ぶゲイ」と「現実に行動をするゲイ」という「二つの人種」が存在している、というわけでは決してない。社会的な「抑圧」によって、自己防衛の手段として「パッシング」してきたのだ。その抑圧は強力で、アメリカ共和党の弁護士ロイ・コーンのように「男とファックするヘテロ」という「自己規定」を行った人物もいる。
しかし、客観的に見れば、ロイ・コーンは、あきらかにゲイであり、「男とファックするヘテロ」は「倒錯的なレトリック」でしかない。
レトリック……。
たしか、チェスタトンだったか。木の葉を隠すのは、森の中へ、そして、死体を隠すのは、戦場へ。
では、「ペドフィリア」を隠すのは、どうすればいいのだろう。何に偽装=「パッシング」すれば良いのだろう。
木曜日, 4月 01, 2004
[児童ポルノとホラー映画の差異]
両者が犯罪を誘発するとして俎上に挙がった場合、ホラー映画愛好者は、「児童ポルノを見たからといって、幼女に対して性犯罪を犯すとはかぎらない」という、<対抗言説>を取るだろうか?
しかしオタクは、「ホラー映画愛好者が殺人を犯すとはかぎらない(または<実際の>殺人愛好者だろうか)」という<言い訳>をする。この「差」は、いったい、何なんだろう。
そもそも、「児童ポルノ」と「ホラー映画」は、「並列」させるべきものなのだろうか?
できないと思う。
「ホラー映画」は、たしかに、<殺人を犯す側>に焦点を移し、現実社会では実行できない「殺人」を追体験する「快楽」を得ることは、可能だ。しかし、それだけではないだろう。何より「恐怖」を味わうためには<被害者>になることも必要だ(無論、第三者として、お気軽に楽しむのが一般的であろうが)。そういった意味で、「ホラー映画」は多義的な「追体験」ができる。
しかし、「児童ポルノ」はどうであろう。言うまでもなく、「加害者」としての「追体験」をするのは「成人」だ。「被害者」は「幼女」だ。
さらに両者の「差」はこれだけではないと思う。問題は、「本能」に訴えるかどうかだ。
「殺人本能」というのは聞いたことがない。「闘争本能」の結果、殺害に至ることはあるだろう。動物だって、生存競争において(餌を得るために)、他の動物を殺すことはあるが、純粋に「殺害」を個体に命令する「本能」はないだろう。
しかし性(セックス)は「本能」である。「刺激」の度合い、その意味合いは異なるはずだ。
この「差」は強調しておきたい。
したがって、「児童ポルノ(それが、二次元だろうと三次元だろうと)」と「ホラー映画」は「並列」させるべきではない。
両者が犯罪を誘発するとして俎上に挙がった場合、ホラー映画愛好者は、「児童ポルノを見たからといって、幼女に対して性犯罪を犯すとはかぎらない」という、<対抗言説>を取るだろうか?
しかしオタクは、「ホラー映画愛好者が殺人を犯すとはかぎらない(または<実際の>殺人愛好者だろうか)」という<言い訳>をする。この「差」は、いったい、何なんだろう。
そもそも、「児童ポルノ」と「ホラー映画」は、「並列」させるべきものなのだろうか?
できないと思う。
「ホラー映画」は、たしかに、<殺人を犯す側>に焦点を移し、現実社会では実行できない「殺人」を追体験する「快楽」を得ることは、可能だ。しかし、それだけではないだろう。何より「恐怖」を味わうためには<被害者>になることも必要だ(無論、第三者として、お気軽に楽しむのが一般的であろうが)。そういった意味で、「ホラー映画」は多義的な「追体験」ができる。
しかし、「児童ポルノ」はどうであろう。言うまでもなく、「加害者」としての「追体験」をするのは「成人」だ。「被害者」は「幼女」だ。
さらに両者の「差」はこれだけではないと思う。問題は、「本能」に訴えるかどうかだ。
「殺人本能」というのは聞いたことがない。「闘争本能」の結果、殺害に至ることはあるだろう。動物だって、生存競争において(餌を得るために)、他の動物を殺すことはあるが、純粋に「殺害」を個体に命令する「本能」はないだろう。
しかし性(セックス)は「本能」である。「刺激」の度合い、その意味合いは異なるはずだ。
この「差」は強調しておきたい。
したがって、「児童ポルノ(それが、二次元だろうと三次元だろうと)」と「ホラー映画」は「並列」させるべきではない。
水曜日, 3月 31, 2004
[やじうまGUIDEへ]
読んでみたが、やはり違和感が残る。どうして「正しいモデル」と「間違ったモデル」があり、なぜ一方が正しいと言えるのか、だ。
そして、どうして、今回の高崎による(オタクによるとされる)幼女殺害事件を論じるのに、ゲイをはじめ様々なセクシュアリティを持つ「マイノリティ」が総動員されるか、だ。当然、僕がそのことに異議を呈したことに、「日本語を勉強しろ」などという難癖をつけ、今だ、オタクの定義だとか、あなたも「オタク」だなどという対応しか受けていない。却って「オタク差別」などと言われる始末。
そもそも、この高崎の事件をマスコミが大々的に報道したのは、「マイノリティ」をスケープゴートにするためだったのか。違うと思う。あまりにも残虐で異様な犯罪だったからだ。
残虐なレイプ犯罪が起こり、犯人が「レイプビデオ」を大量に持っていたら、社会(マスコミ)は、そのことを問題にする。
残虐な猟奇殺人が起こり、犯人が「猟奇ホラービデオ」の熱心なファンだったら、社会はそのことを問題にする。
それは、ある程度仕方のないことで、もっと言えば、「社会」がそういった残虐な犯罪に対し、そのやり方はどうであれ、「防衛する能力」を今だ有している、ということになる。
そして今回の幼女殺害事件も、犯人が幼女ポルノを大量に持っていた、ということにつきる。だから社会(マスコミ)は、児童ポルノを俎上に挙げ、犯人の「オタク的行動」を指弾した。
しかし、僕が「異議申し立て」を行っているのは、児童ポルノでも「オタクそのもの」ではない。問題は、児童ポルノやオタクを擁護する「言説」において、ゲイやその他のセクシュアルマイノリティが「動員」される「必然性」だ。
残虐なレイプ犯の登場によって、「レイプもの」は指弾されるだろう。しかしその「愛好者」は、「レイプもの」を擁護する「言説」において、自分たちを「マイノリティ」とし、ゲイその他のセクシュアルマイノリティを引き合いに出し、一緒くたに議論を展開するだろうか? 「ゲイだってそうですよね、男性が男性を<実際に>レイプしなければ、かまわない」というふうに。
しかし、児童ポルノ愛好者でオタクは、そういった議論を行う。そのことに、引き合いに出されたゲイである僕は強い違和感を感じた。「少女の裸体」を見る権利を「守るため」に、なぜ、「ゲイであることはかまわない」などと「判断」「評価」の<対象>とされ、ここぞとばかり「マイノリティ」が強調されるのか。
もし、「クラシック音楽オタク」や「アートオタク」が「オタク」に含まれるなら、オタクは、すでにして、<性的>な「マイノリティ」ではない。
よって、「セクシュアル・マイノリティ」を引き合いに出し、児童ポルノ愛好者である「オタク」を擁護すべきではない。「マイノリティ」を<利用>するな、と言いたい。それは、端的に、卑怯であると思う。
読んでみたが、やはり違和感が残る。どうして「正しいモデル」と「間違ったモデル」があり、なぜ一方が正しいと言えるのか、だ。
そして、どうして、今回の高崎による(オタクによるとされる)幼女殺害事件を論じるのに、ゲイをはじめ様々なセクシュアリティを持つ「マイノリティ」が総動員されるか、だ。当然、僕がそのことに異議を呈したことに、「日本語を勉強しろ」などという難癖をつけ、今だ、オタクの定義だとか、あなたも「オタク」だなどという対応しか受けていない。却って「オタク差別」などと言われる始末。
そもそも、この高崎の事件をマスコミが大々的に報道したのは、「マイノリティ」をスケープゴートにするためだったのか。違うと思う。あまりにも残虐で異様な犯罪だったからだ。
残虐なレイプ犯罪が起こり、犯人が「レイプビデオ」を大量に持っていたら、社会(マスコミ)は、そのことを問題にする。
残虐な猟奇殺人が起こり、犯人が「猟奇ホラービデオ」の熱心なファンだったら、社会はそのことを問題にする。
それは、ある程度仕方のないことで、もっと言えば、「社会」がそういった残虐な犯罪に対し、そのやり方はどうであれ、「防衛する能力」を今だ有している、ということになる。
そして今回の幼女殺害事件も、犯人が幼女ポルノを大量に持っていた、ということにつきる。だから社会(マスコミ)は、児童ポルノを俎上に挙げ、犯人の「オタク的行動」を指弾した。
しかし、僕が「異議申し立て」を行っているのは、児童ポルノでも「オタクそのもの」ではない。問題は、児童ポルノやオタクを擁護する「言説」において、ゲイやその他のセクシュアルマイノリティが「動員」される「必然性」だ。
残虐なレイプ犯の登場によって、「レイプもの」は指弾されるだろう。しかしその「愛好者」は、「レイプもの」を擁護する「言説」において、自分たちを「マイノリティ」とし、ゲイその他のセクシュアルマイノリティを引き合いに出し、一緒くたに議論を展開するだろうか? 「ゲイだってそうですよね、男性が男性を<実際に>レイプしなければ、かまわない」というふうに。
しかし、児童ポルノ愛好者でオタクは、そういった議論を行う。そのことに、引き合いに出されたゲイである僕は強い違和感を感じた。「少女の裸体」を見る権利を「守るため」に、なぜ、「ゲイであることはかまわない」などと「判断」「評価」の<対象>とされ、ここぞとばかり「マイノリティ」が強調されるのか。
もし、「クラシック音楽オタク」や「アートオタク」が「オタク」に含まれるなら、オタクは、すでにして、<性的>な「マイノリティ」ではない。
よって、「セクシュアル・マイノリティ」を引き合いに出し、児童ポルノ愛好者である「オタク」を擁護すべきではない。「マイノリティ」を<利用>するな、と言いたい。それは、端的に、卑怯であると思う。
火曜日, 3月 30, 2004
[え、東浩紀ってオタクじゃないんですか?]
早速の「応答」どうもです。
それで、『動物化するポストモダン』ですが、副題が「オタクから見た日本社会」とありますが、それって「オタク」が「オタク」の視点で書いたものではないんですか? それは、こちらが聞きたいぐらいです。なぜ違うんですか?
で、「ペドフィリア」については、そうですね、確かに迂回した書き方をしてしまいました。そうですね、幼児と性的接触してしまう人のことを考えてました。
児童ポルノ法については、これから読んでみます。
早速の「応答」どうもです。
それで、『動物化するポストモダン』ですが、副題が「オタクから見た日本社会」とありますが、それって「オタク」が「オタク」の視点で書いたものではないんですか? それは、こちらが聞きたいぐらいです。なぜ違うんですか?
で、「ペドフィリア」については、そうですね、確かに迂回した書き方をしてしまいました。そうですね、幼児と性的接触してしまう人のことを考えてました。
児童ポルノ法については、これから読んでみます。
[リーヴァイスを履いて、探検しよう]
読むなと言えば、読みたくなるし、横線があれば、なおのこと<良く見える>。なかなかじゃないですか。
僕があなたのサイトを読んでいないというならば、あなたの方も僕のサイトを読んでいませんね。僕がそもそも最初に「オタク」に不信=怒りを感じたのは、東浩紀が同性愛をオタクの外部において、ペドフィリアと並列させ「倒錯」と書いたからです。(「やおい」にしても、高城響が、同性愛を「異常」と書いたからです)
『アンティゴネの手』や『人権の彼方へ』『イデオロギーとは何か』で書いた意義申し立て=主張は、「オタク(東、高城)が同性愛を<倒錯>または<異常>と、平然と書いていること」に対してです。非オタクからみると、東や高城の「見解」はじゅうぶんに「オタクの意見を代表」しているように見えますが、違うのでしょうか?
そして一番の主張は、「同性愛を<倒錯/異常>と規定した後に、オタク(やおい)は倒錯/異常では<ない>と書いている二人のロジックです。そのことは、どう思います?
特に東は「<現実の>ペドフィリア」という書き方をしています。これは、では、「<現実>では<ない>ペドフィリア」が「オタク」に相当するのではないか、と思い安っぽい書きかたで、非常に申し訳ないと思いますが、『アンティゴネの手』では、そのことを書きました。「オタク」が「(現実の)ペドフィリア」を「倒錯」と呼び「同性愛と<並列>させ、差別している」と。つまり、僕が書きたかったのは、他者を「倒錯」と読んだら、それは自分に撥ね返る、その「倒錯性」は自分に「再帰」すべきものだ、ということです。まあそこでの「児童ポルノ」のことは、成り行き上、自分自身に<正しく>「再帰」させないと、「悲劇的な運命」に見舞われる、というアンティゴネの物語を敷衍したまでです。ただ、児童ポルノ改正にデリケートになるのは「言論の自由」が問題だからなんですか?
後、どうも僕とあなたの「認識」がズレているところがあるようなので、断っておきますけど、僕が「ペドフィリア」というのは、いつでも(東浩紀が言う)<現実のペドフィリア>であって、「幼児に対する欲望を持っている<状態>の人」ではありません。「必ず実行する/かつてした人」です。そこのところを踏まえて、
「僕の偏見」(”あなた自身の偏見についても自覚的であってほしいと思います。「偏見反対」を語る人が「偏見」に凝り固まっていたのでは第三者から見て説得力はありませんよ”)
というものを諭してくれると、非常にありがたいですね。
読むなと言えば、読みたくなるし、横線があれば、なおのこと<良く見える>。なかなかじゃないですか。
僕があなたのサイトを読んでいないというならば、あなたの方も僕のサイトを読んでいませんね。僕がそもそも最初に「オタク」に不信=怒りを感じたのは、東浩紀が同性愛をオタクの外部において、ペドフィリアと並列させ「倒錯」と書いたからです。(「やおい」にしても、高城響が、同性愛を「異常」と書いたからです)
『アンティゴネの手』や『人権の彼方へ』『イデオロギーとは何か』で書いた意義申し立て=主張は、「オタク(東、高城)が同性愛を<倒錯>または<異常>と、平然と書いていること」に対してです。非オタクからみると、東や高城の「見解」はじゅうぶんに「オタクの意見を代表」しているように見えますが、違うのでしょうか?
そして一番の主張は、「同性愛を<倒錯/異常>と規定した後に、オタク(やおい)は倒錯/異常では<ない>と書いている二人のロジックです。そのことは、どう思います?
特に東は「<現実の>ペドフィリア」という書き方をしています。これは、では、「<現実>では<ない>ペドフィリア」が「オタク」に相当するのではないか、と思い安っぽい書きかたで、非常に申し訳ないと思いますが、『アンティゴネの手』では、そのことを書きました。「オタク」が「(現実の)ペドフィリア」を「倒錯」と呼び「同性愛と<並列>させ、差別している」と。つまり、僕が書きたかったのは、他者を「倒錯」と読んだら、それは自分に撥ね返る、その「倒錯性」は自分に「再帰」すべきものだ、ということです。まあそこでの「児童ポルノ」のことは、成り行き上、自分自身に<正しく>「再帰」させないと、「悲劇的な運命」に見舞われる、というアンティゴネの物語を敷衍したまでです。ただ、児童ポルノ改正にデリケートになるのは「言論の自由」が問題だからなんですか?
後、どうも僕とあなたの「認識」がズレているところがあるようなので、断っておきますけど、僕が「ペドフィリア」というのは、いつでも(東浩紀が言う)<現実のペドフィリア>であって、「幼児に対する欲望を持っている<状態>の人」ではありません。「必ず実行する/かつてした人」です。そこのところを踏まえて、
「僕の偏見」(”あなた自身の偏見についても自覚的であってほしいと思います。「偏見反対」を語る人が「偏見」に凝り固まっていたのでは第三者から見て説得力はありませんよ”)
というものを諭してくれると、非常にありがたいですね。
月曜日, 3月 29, 2004
[Gay Science]
もちろん「応答」しますよ。
そうですか? わかりませんか。 そして「悪しき教養主義」ですか、目指していたのは「楽しい教養主義」なんですが……。
じゃあ、こちらの『イデオロギーとは何か』なら、どうでしょう。
問題は
1、東浩紀が、同性愛者を「何度も何度も何度も」<倒錯者>と呼ぶこと。
2、高城響が同性愛を「異常」だと書いていること。
このことを批判していた流れで、そちらのサイトを見つけたわけです。
そして、
3、「ペドフィリア」には「異性愛のペドフィリア」と「同性愛のペドフィリア」(同様に異性愛者のSM,同性愛のSM)があるのに、異性愛の性的<嗜好(フェチ)>に対し、<同性愛(そのもの)>が「同列/並列」に扱われていること。「VS」を持ち入るならば、異性愛VS同性愛、異性愛のペドフィリアVS同性愛のペドフィリア、異性愛のSM VS 同性愛のSM。つまり「同性愛」を「異性愛の下部」において、その「変形的、倒錯的<嗜好>」として、論じて欲しくないこと。
だとしたら、
”え〜と。私は「マジョリティの性的嗜好とは違う人々」の意味で「ゲイ」を出しただけで、別にスカトロジストでもジェロントフィリア(老人愛)でもなんでもよかったんですが。私はゲイには悪い印象は全く持っていないつもりです。”
このセンテンスに僕が、またもや「脊髄反射」してしまう「理由」がわかりますか? 何度も何度も何度も「マジョリティと違う」と「反復」されることの「不快さ」がわかりますか? 事あるごとに、「性的な事件」「<性倒錯>的な話題」で「ゲイ」が「引き合いに」出される、「不愉快さ」がわかりますか? こう言う場合に「異性愛(そのもの)が「引き合いに」出されて「分析」されることが、ありますか? そのことの「圧倒的な非対称」、「差別」を感じることが、あなたは「被害妄想」だとういうんですよね。
だったら、どうしてゲイは、しょっちゅう「セックス」をしている「人種」としてか、「セックスに関する話題」でしか、オタクも含めたヘテロセクシュアルに言及されないのでしょう。そういった「ステレオタイプ」に抗することが「攻撃」だと思われるのでしょうか?
僕は、女性ではないので、女性が持つ「セクシュアル・ハラスメント」の意識について、理解できるとは決して思いません。しかし、それでも「仕事場」に女性のヌード写真があったり、しょっちゅう「性的な話題」や「性的な冗談」の<対象>になる「不快さ」が、なんとなくですが、わかるような気がします。
それと、君の文章に「脊髄反応」したのは、他でもありません。<悪しき>教養主義であるとか、<意味のない>引用だとかのように、「決めつけ」が気になったからです。無論、「被害妄想」という「決めつけ」も。
ですから、
”「ペドとゲイを並べること」は「差別」である、と書いているのですよね。ということは、あなたはペドフィリア……”
という「決めつけ」も気になりますね。僕は「両者を並べて」<倒錯者>と呼ぶことを「問題」にしているわけです。
で、あなたは「マジョリティの性的嗜好とは違う人」を<倒錯者>と呼ぶのですか?
だったら、東浩紀が、オタクの外部に「現実のペドフィリア」と「同性愛」を置いて、「倒錯者」と呼ぶロジックが気になりませんか?
どちらかというと、君への反応は『デリダ──脱構築 』に書いています。もちろんここにある「引用」は<意味のない引用>だなんて、僕は、決して思っていません。そして、笑ってもかまいませんが、このサイト「ゲイ・パサージュ」の「パサージュ」はベンヤミンの『パサージュ論』からきています。だから、このサイトのポリシーは「引用」が「主」です。「引用」に合わせて、僕の意見を述べているようなものです。
では、長々と「例外的」に意見「だけ」を書きましたが、今度は、とびきりの「引用」を見つけて、もっと補足したいと思います(週末ぐらいになりそうですが、多分)。
もちろん「応答」しますよ。
そうですか? わかりませんか。 そして「悪しき教養主義」ですか、目指していたのは「楽しい教養主義」なんですが……。
じゃあ、こちらの『イデオロギーとは何か』なら、どうでしょう。
問題は
1、東浩紀が、同性愛者を「何度も何度も何度も」<倒錯者>と呼ぶこと。
2、高城響が同性愛を「異常」だと書いていること。
このことを批判していた流れで、そちらのサイトを見つけたわけです。
そして、
3、「ペドフィリア」には「異性愛のペドフィリア」と「同性愛のペドフィリア」(同様に異性愛者のSM,同性愛のSM)があるのに、異性愛の性的<嗜好(フェチ)>に対し、<同性愛(そのもの)>が「同列/並列」に扱われていること。「VS」を持ち入るならば、異性愛VS同性愛、異性愛のペドフィリアVS同性愛のペドフィリア、異性愛のSM VS 同性愛のSM。つまり「同性愛」を「異性愛の下部」において、その「変形的、倒錯的<嗜好>」として、論じて欲しくないこと。
だとしたら、
”え〜と。私は「マジョリティの性的嗜好とは違う人々」の意味で「ゲイ」を出しただけで、別にスカトロジストでもジェロントフィリア(老人愛)でもなんでもよかったんですが。私はゲイには悪い印象は全く持っていないつもりです。”
このセンテンスに僕が、またもや「脊髄反射」してしまう「理由」がわかりますか? 何度も何度も何度も「マジョリティと違う」と「反復」されることの「不快さ」がわかりますか? 事あるごとに、「性的な事件」「<性倒錯>的な話題」で「ゲイ」が「引き合いに」出される、「不愉快さ」がわかりますか? こう言う場合に「異性愛(そのもの)が「引き合いに」出されて「分析」されることが、ありますか? そのことの「圧倒的な非対称」、「差別」を感じることが、あなたは「被害妄想」だとういうんですよね。
だったら、どうしてゲイは、しょっちゅう「セックス」をしている「人種」としてか、「セックスに関する話題」でしか、オタクも含めたヘテロセクシュアルに言及されないのでしょう。そういった「ステレオタイプ」に抗することが「攻撃」だと思われるのでしょうか?
僕は、女性ではないので、女性が持つ「セクシュアル・ハラスメント」の意識について、理解できるとは決して思いません。しかし、それでも「仕事場」に女性のヌード写真があったり、しょっちゅう「性的な話題」や「性的な冗談」の<対象>になる「不快さ」が、なんとなくですが、わかるような気がします。
それと、君の文章に「脊髄反応」したのは、他でもありません。<悪しき>教養主義であるとか、<意味のない>引用だとかのように、「決めつけ」が気になったからです。無論、「被害妄想」という「決めつけ」も。
ですから、
”「ペドとゲイを並べること」は「差別」である、と書いているのですよね。ということは、あなたはペドフィリア……”
という「決めつけ」も気になりますね。僕は「両者を並べて」<倒錯者>と呼ぶことを「問題」にしているわけです。
で、あなたは「マジョリティの性的嗜好とは違う人」を<倒錯者>と呼ぶのですか?
だったら、東浩紀が、オタクの外部に「現実のペドフィリア」と「同性愛」を置いて、「倒錯者」と呼ぶロジックが気になりませんか?
どちらかというと、君への反応は『デリダ──脱構築 』に書いています。もちろんここにある「引用」は<意味のない引用>だなんて、僕は、決して思っていません。そして、笑ってもかまいませんが、このサイト「ゲイ・パサージュ」の「パサージュ」はベンヤミンの『パサージュ論』からきています。だから、このサイトのポリシーは「引用」が「主」です。「引用」に合わせて、僕の意見を述べているようなものです。
では、長々と「例外的」に意見「だけ」を書きましたが、今度は、とびきりの「引用」を見つけて、もっと補足したいと思います(週末ぐらいになりそうですが、多分)。
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